これはバグダッドにある無名戦士慰霊碑です。
イラン・イラク戦争中、イランはイラクの捕虜3,000名を殺害しました。
聞くも恐ろしい残虐な拷問を行いました。
さらに、それを見せたイラク兵士数名を生き証人として物語るため、イラク側に生きて返しました。
捕虜殺しで、当時を生きたイラク人達が決して忘れられない光景があります。
それはイラク人捕虜2名が殺害される映像で、一名は銃で撃って、もう一名は両手首を紐で縛られ、二台の車に結びつけられ、二台が反対方向に走って両腕が肩から外れて千切れて死ぬ映像です。ニュースで繰り返し流されました。
イランがイラクに抱く数千年分の怨念の現れです。
いまもイラン人はイラクは支配したいけど、イラク人が大嫌いです。イラク人は毎年数百万人のイラン人のシーア派聖地巡礼者を受け入れ、もてなしていますが、イラク人がイランを訪れるととても邪険にされ、嫌な思いをして、イランが大嫌いになって帰ります。
少し前に、イランの入国審査で審査官にイラク・パスポートを顔に投げつけられた人が話題になりました。
私が2年前にイランを訪れた時も、私がイラク・ルーツと知ると「日本人の人たちは楽しい思い出しか持たないだろうけど、あなたはイラク人として嫌な事を言われ、とても嫌な思いをするだろうな。」と泊まったホステルのオーナーに言われました。
オーナーはイラン革命にも参加し、イラン・イラク戦争でも戦った革命防衛隊の人でした。戦争で負傷し、生死を彷徨い、いまもイラク人が大嫌いそうでした。
皆さんに知っていただきたいのは、イラン対イラクというより、ペルシャ民族対アラブ民族の根深い怨念があるということと、イランという国家はそのような残虐なことを行える政権で、国際法も遵守しない国家であるということです。
イランは戦時国際法のジュネーブ条約違反を犯し続け、イラクの再三の抗議にもかかわらずやめませんでした。
8年間続いたイラン・イラク戦争では、停戦合意が締結する迄、イラク人捕虜のうち将校は全員射殺され、兵士しか生き残れませんでした。
こんな歴史があり、捕虜3,000人が殺害された12月1日がイラクの殉教者の日に定められました。
2003年以降は、イラン系政党政府は殉教者の日が制定されるきっかけとなった捕虜殺害事件をなるべく忘れさせて、忘却の彼方に葬らせようと、ムハンマド・バークル・アル=サドルがサダム・フセインに殺害された事を追悼する日にすり替えました。
そして、この日にはせっせとサダム政権の残忍さを国民に宣伝し、ムハンマド・バークル・サドル師が処刑された4月9日をイラク国最大の国家行事として追悼式を行うようになりました。
そんな時勢ゆえ、イランに処刑された三千人の捕虜の家族は毎年、ひっそりと12月1日に家で悲しみに暮れて過ごしています。
今年の殉教者の日は、抗議デモの犠牲者が何百人という、なんとも悲しい年なので、12月1日にカバーをこの写真に変えました。
この無名戦士慰霊碑は1983年に日本企業が建設したものです。日本人には桃太郎を連想させるデザインなので、当時の日本人コミュニティでも「桃太郎」と呼ばれていました。
このデザインはアッバース朝式モスクの高さ40メートルのドーム屋根の形で、慰霊碑の直径は190メートル。周りを人工湖が囲んでいます。
イスマーイール・ファタハ・アル=トゥルクのデザインで、サーマーン・アスアド・カマールの設計で、無名戦士の通りに車で入ると最初一体化して見えるドームが近くにつれてずれていき、中から天にのぼる無名戦士の魂をあらわしたイラク国旗のオブジェの噴水があらわれる仕掛けになっています。この慰霊碑にはイラン・イラク戦争の戦死者の名前も記されています。
2003年以降のイラク政権はこの慰霊碑を完全に無視して、メンテナンスも一切せずに放置しています。
2014年スパイカーの基地で千人のイラク空軍学校の生徒2千人以上がイスラム国に殺害される事件がありましたが、無名戦士の慰霊碑には祀られませんでした。
そこまでするほど、現イラク政権というのはイランの意向がイラクよりも大切な人達なのです。
すっかり長くなりましたが、最後に。この写真の無名戦士慰霊碑ができる前にあった無名戦士慰霊碑は、2003年にバグダッドが陥落した時に倒されたサダム・フセイン像があった、あの場所にありました。
1983年に写真の慰霊碑が完成した時に撤去され、サダムフセイン像が設置されました。
私はこれらの全ての出来事を見てきた生き証人です。
いろんな事がありました。
体験者が語り継がないと、歴史が捻じ曲げられたり、忘れられたりしてしまうのだなと思う昨今です。